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平安時代後期の陰謀論 [歴史]

 歴史上、いろいろな陰謀論が唱えられた事件というものがある。そのなかで、日本史では、河内源氏にまつわる陰謀論が展開されている。古くは、源義家が後三年の役の後、官途につけず、荘園の寄進を停止されたことなどを取り上げて、白河院政の陰謀、摂関家の陰謀が唱えられた。しかし、近年の日本史の学界では否定されている。また、反対に、前九年の役、後三年の役は源頼義や源義家による陰謀だったという新たな陰謀論が展開されている。

 そして、それらが学界において通説となりつつある。しかし、それは正しいのだろうか。最近の学界での議論を見ていると、どうも理解できない主張が多い。少なくとも陰謀であるならば、マキャベリズム的要素、確信犯的でなくてはならない。まるで、少し前の民主党の小沢疑惑に対する「国策捜査」批判と似た論理がそこにはある。

 前九年の役で、安倍氏を滅亡に追い込んだのは、奥州に勢力を扶植するために源頼義が仕組んだ陰謀だとの論だが、学界では有力視されていても、司法的な判断からすれば荒唐無稽でしかない。まず、何らの証拠があるわけではなく、客観的な証拠はすべて源頼義陰謀説を否定している。

 この問題で注目すべきは、在庁官人の一部と安倍氏との対立である。俘囚の長であり、陸奥国において、勢力を築いていた安倍氏の勢力を削ぐことが地方行政組織である国衙にとって長年の懸案であったことは間違いない。安倍氏の朝廷に対する態度は、「面従腹背」という言葉どおりのもので、歴代の陸奥守・鎮守府将軍も安倍氏には手をつけなかった。在地の官僚組織である在庁官人からすれば、国内に朝廷の権威に服さず、地域の秩序を犯す安倍氏を何らかの形で屈服させるか崩壊させることが至上命題となっていた。また、藤原登任などが討伐をおこなったこともあったが安倍氏の軍事力は大きく討伐することができなかった。

 そこに、今までのような受領層ではない、中央の軍事貴族であり、武勇の誉れ高き源頼義が陸奥守となった。そこに、在庁官人たちの期待は高まった。今までのような軟弱な受領層の貴族ではなく、武門の家柄の軍事貴族の源頼義ならば、安倍氏を屈服させられるはずだという期待があった。しかし、安倍氏は面従腹背の姿勢を崩さず、平身低頭で源頼義に前に跪き、源頼義の任期が切れるまで待つ姿勢を示した。それを察知した、反安倍派の在庁官人たちが、源頼義在任中に安倍氏が反旗を翻すように陰謀を練り、それが阿久利川事件となったと考えるのが妥当だ。その中心人物は藤原説貞などの国衙に属する在庁官人だったと考えられる。

 なぜなら、源頼義が首謀者であれば、それ以前に手を打つ方法がいくらでもあったからだ。前九年の役では多くの関東から東海、畿内の武士が源頼義陣営に馳せ参じたが、陰謀を考えていたのであれば、事前に、それらの武士に参集の布告をして準備をさせることも可能だったはずだが、実際には、阿久利川事件以降の動きは突発的な事件に対する対応以上のものではなく、源頼義陣営に参加した武士たちの多くが、源頼義が苦戦していることを知ってから駆け付けている。このことからも、源頼義が首謀者であったとは考えられない。

 また、当初、源頼義陣営に関東や東海、畿内の武士の参加が少なく、国衙の兵に頼った戦いをしていることを根拠に、河内源氏が関東、東海、畿内の武士と主従関係を結んでいなかったとする論を提唱する人たちも多く、学界で有力説となりつつあるが、それらの説はあくまでも、源頼義が陰謀の首謀者であったという前提がなくては説明が成り立たないものだ。首謀者であったのに、それらの武士を動員できなかったということは主従関係がなかったという説明がなされるが、実際には陰謀の首謀者ではなく、巻き込まれたために、それらの武士は「源頼義苦戦」の報を聞いて駆け付けたのだ。幕府成立後の御家人が鎌倉参集の原型が、ここに見られる。

 さらに、一部には、前九年の役に参集した武士たちは「河内源氏のコネクション」によるもので、主従という関係ではないという主張もあるが、これも意味がわからない。コネクションとは何か。単に顔見知りだから、命がけで戦うとなるだろうか。コネクションとは、義理があるということであり、命がけで戦うというほどの義理とは何か。よほどの恩恵を受けていなくてはありえないだろう。平和ボケした日本だからこそ、単なる顔見知り程度でも戦場へ赴くなどという荒唐無稽な論理が成り立つのであって、実際に、命をかけて戦う戦場に、顔見知りだからというだけで一族郎党を引き連れて、彼らの命まで危険に曝して遠路はるばる赴くだろうか。前九年の役のあたりである程度の主従関係が河内源氏と関東、東海、畿内の武士たちとの間で成立していた可能性が高い。ただし、後世のような強固なものではなかったのは間違いない。しかし、命をかけて戦うことができたのだから、決して弱い関係ではないことも間違いない。

 また、源頼義陰謀論が成立しない最大の要件は、前記のとおり、源頼義が安倍氏との戦いで苦戦したことだ。在任中に安倍氏の勢力、軍事力などを把握していたはずの源頼義が本気で安倍氏を陰謀に陥れてその勢力を奥州に扶植するつもりであれば、安倍一族の不満分子の切り崩しや、兵力の動員のための先触を関東、東海、畿内などの武士に出し、息子たちも呼び寄せていたはずだが、それらをすべて源頼義は、戦いが始まってから急遽、慌てて行っている。そのことからも、源頼義が陰謀の中心だったとは思われない。まして、源頼義の任期が終わりかけている時期に、安倍氏の側から源頼義に挑む理由もなく、考えられるのは、在庁官人の中の反安倍派であった藤原説貞らによる陰謀だろう。

 結果的に、前九年の役の結果、安倍氏は滅亡し、奥州には出羽の清原氏が勢力を拡大し、源頼義は勢力を扶植などしていない。結果からみても、源頼義が陰謀中心であったとは思われない。


 また、後三年の役においても、源義家が清原氏を滅亡させ、河内源氏の勢力扶植のための陰謀だったという説が唱えられているが、これも同様に、陰謀などはない。清原氏の家督争いに源義家が巻き込まれただけだからだ。巻き込まれた理由は、複数ある。陸奥守であったこと、清原氏と縁戚関係となっていたことなど多くのことが影響している。ただ、言えることは、源義家が戦いの主導権を握っていたわけではないということだ。結果的には、源義家が勝利したが、源義家は、この地に勢力を扶植していない。結果は、藤原清衡が奥州藤原氏という政権をこの地に築いたというだけだ。

 高度成長期以降、学界では「河内源氏陰謀説」が花盛りだが、その背景には、左派的な学者の登場がある。日本がアジアを侵略したとする自虐史観に基づき、それを中世に当てはめ、河内源氏を昭和の日本に見立てて、侵略者河内源氏と被害者安倍氏、清原氏として、河内源氏は奥州(東北地方)を侵略した悪者で、昭和の軍部と同様だという考え方で、「阿久利川事件」を「満州事変」や「上海事変」に当て嵌めて論じているが、無理がある。首謀者でないものを首謀者にするために論理を展開しているが各所で論理が破綻している。

 とはいえ、学界ではそれが主流であり、現在もその傾向は是正されていない。また、それに付随して、小説なども発表され、源氏陰謀説が補強されているが、何れ、是正される時が来るだろう。


 さらに、源義家が後三年の役のあと、不遇だったことに関して、白河院政、摂関家による陰謀論があったが、現在では否定されている。しかし、こちらの陰謀説はありえないことではない。というよりも、元来からあった陰謀説自体、陰謀という言葉を使うほどのものではない。なぜなら、官職への任命権は朝廷が持っており、義家を任じるかどうかは、そこでの判断次第だからだ。かりに故意に任官しなかったからといって陰謀とはいえない。

 ただ、そこにあったのは、義家への恐怖心だろう。末法の世になって以来、日本の国は内乱が続いた。そのなかで、奥州で二度にわたる反乱で武名を挙げた義家の存在と、凱旋時の荒ぶる武士たちの姿。そして、暗鬱な社会情勢の中で民衆が一筋の光明として支持する義家という存在が、白河院政、摂関家にとって嫉妬の対象であったことだろうことは想像できる。如何に高い官職を持ち、財力を保持していても、得ることができないものが民意である。この時代、民主主義などという言葉はなく、当然、民意によって政治が変わることはないが、人気、人望、輿望というものの威力は理解されていた時代だ。義家の「武」に集まる輿望、期待。時代の変革を期待する民衆に院政も摂関家も危険なものを感じたのだろう。そして、現実に義家が持つ「武」という力にも。それが義家にこれ以上の武功を挙げさせてはならないという意識を醸成させたのだろう。これも、陰謀ではない。単なる嫉妬心と、危険に対する防衛本能だからだ。

 しかし、その危険の予知は現実のものとなる。保元、平治の乱で、武士の力が鮮明となると、公武合体政権とも言える「平氏政権」、そして、その「平氏政権」を打倒して、本格的な武士による政権、「鎌倉政権」へと向かった。院政や摂関家が抱いた、義家の「武」への恐れは、100年後には現実のものとなった。彼らがしたのは陰謀というほどのものではないが、陰謀がなかったわけではない。防衛本能がさせた程度の陰謀だったということだ。
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