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奥州安倍氏は本姓「平氏」か [歴史]

 奥州安倍氏と言えば、前九年の役に登場する、安倍頼良(頼時)、貞任親子が有名だが、この時代、陸奥の国のいわゆる「奥六郡」と呼ばれる地域を支配していた俘囚の首または俘囚の長と呼ばれていた安倍氏だが、この安倍氏についてその先祖が誰であるのかが定かではない。

 「陸奥話記」などの文献では、頼良(のちに改め頼時)の父が「安倍忠良」であったことや、その祖父が、「忠頼」という名であったと伝わる。文献や記録をたどると、安倍頼良より前の時代に、郡司として「安倍忠好」という人物が記録されている。可能性として、これが安倍頼良の父、「安倍忠良」のことであり、「忠好」=「忠良」であると推定して間違いはなかろう。

 では、その父である「忠頼」とはどういう人物なのか。文献や記録から見るところ、この人の氏がわからない。「忠良」も「頼良」も明確に「安倍」と記録されているが、この「忠頼」に関しては定かではない。しかし、便宜上、多くの書では「安倍忠頼」と記載されている。

 この「忠頼」という人物の出身によって、前九年の役で突如として表れたという感のある「安倍氏」の由来がわかる。

 前九年の役に登場する在地勢力はどれも本姓を隠している。安倍氏にしても清原氏にしても、どちらも朝廷の有力氏族の姓だ。安倍氏の安倍は蝦夷征伐に活躍した「阿倍比羅夫」の子孫と仮冒したものなどいろいろな説があるが明確な由来は不明だが、本姓ではない。また、清原氏も秋田城下の乱を平定するなど活躍し、俘囚の長として俘囚を治めた「清原令望」の子孫を称しているが、これも仮冒であり、近年の研究では「海道平氏」の一族という見解もある。

 というのも、関東の平氏の多くが根拠を東北に求める傾向が10世紀から表れてきたこと明らかになってきたからだ。

 たとえば、前九年の役を起こした陸奥守藤原登任に協力した秋田城介の平重成(繁成)も、関東平氏の一族であり、上記の海道平氏も関東平氏の一つ、常陸平氏の流れだ。

 そこで、話を戻すと、安倍氏の祖とされる「忠頼」だが、この人が活動した時代はいつか。「安倍頼良」が1057年に成人した子供たちを多数残して戦死していることから、彼の生年は11世紀初頭か10世紀末となるだろう。その父親である「安倍忠良」は資料など関係からしても、10世紀後半から中葉の生まれと考えるのが妥当だろう。となると、その父、「忠頼」は10世紀の前期に生まれたとするのが妥当だ。となると、彼の活動した時代は、10世紀の中葉から10世紀末あたりとなる。

 となると、ひとつの疑惑の人が出てくる。それは、「長元の乱」を起こした「平忠常」の父である、「平忠頼(忠依)」だ。この人の経歴を見ると、987年に「陸奥介」と任じられている。ということから、この時期、出身が不明の安倍氏の祖である「忠頼」と、「平忠頼」が同じ陸奥に存在したことになる。これは偶然だろうか。

 また、これが同一人物とすると、「長元の乱」で「源頼信」に征伐された「平忠常」と「前九年の役」で頼信の子、「源頼義」に征伐された「安倍頼時」は同族となり、頼時から見て、「平忠常」は大叔父となる。

 さらに、「前九年の役」に登場する平繁成の祖父、「平繁盛」と「平忠頼」は従兄弟であり、もしかりに、「平忠頼」=「安倍忠頼」であれば、平繁成と安倍頼時の関係も同族ということになる。

 しかも、この「平忠頼」と「平繁盛」という従兄弟は父の時代から敵対関係にあり、武蔵国などで対立をしていた経緯がある。そして、双方が陸奥と出羽という東北地方に進出し、さらに対立を激化させて、その孫の時代に、「平繁成」vs「安倍頼時」として激突したのが「前九年の役」の緒戦であったのではないか。ちなみに、繁盛の兄、貞盛は、平将門の乱を平定した恩賞して鎮守府将軍となり奥州に赴任している。いろいろな経緯があり、関東平氏は奥州や羽州に勢力を広げていた可能性が高い。

 清原氏が「海道(常陸)平氏」であれば、「安倍氏」が「上総平氏」であり、仇敵関係にあったとしてもおかしくはない。そして、何の因縁か、「上総平氏」の嫡流を征伐することで関東に影響力を及ぼした「河内源氏」の「源頼信」の子の「源頼義」が、陸奥守、さらに鎮守府将軍となり、「上総平氏」の庶流であり、奥州に勢力を広げていた「安倍氏」を征討することとなった。そう考えると、朝廷が「安倍頼時」征伐に「源頼義」を充てた理由も見えてくるように思うのだが。
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