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「個 "ko"」と「我 "ga"」 [日本の不幸]

 日本の歴史は有史1800年ほどを数える。単純に一世20年とすると、平均90代を数える。それだけの歴史を我が国の家族史は積み重ねてきたといえる。とはいえ、家族の在り方は歴史の変遷とともに変化を遂げてきた。そして、収斂されて来たはずだ。

 しかし、大きな変革がその歴史を襲った。主に外的要因によっての変革だった。たとえば、開国そして明治維新という一大変革は家族史においても大きな変化を与えた。そして、明治新政府による民法制定は家族の在り方を法的に定めるという、それまでにはなかった大きな変革だった。そして、昭和。第二次世界大戦に敗れた日本は戦前的なものを破壊するという暴挙に出た。「温故知新」などという言葉を捨て、欧米流の「個人主義」というものを取り入れた。だが、取り入れたつもりの「個人主義」が正しいものではなかった。欧米ですら異端とされる「個人主義」を取り入れ、過去の伝統を破壊し、祖先が積み上げてきた文化を捨て、グローバルスタンダードはこれだとばかりに「個人主義」という名の自己中心的な「我」という魔物を取り入れてしまった。

 「個」と「我」の違いは、「個」が「個人」「個別」「個体」「個性」など、単一物として区別する場合に一般的に用いられるのに対し、「我」が「我意」「我執」「我田引水」「我欲」「我利」など自分本位という意味合いが強く、その点で、「個」と異なる。

 今の日本で「個人主義」として、理解される「個性」や、それを重んじる「個性重視」の「個人主義」などの言葉の内容は、「個」ではなく「我」である。この差を理解していないために、言葉だけが独り歩きをしている。

 「個性重視」「個性の尊重」という言葉が日本国中を闊歩しているが、現実には、「我意重視」「我意の尊重」でしかない。確立された個性があり、その特性を生かすのであれば、それは「個性の尊重」であるだろうが、現実にはそうなっていない。

 戦後の日本では、この誤った「個」という名の「我」が氾濫した。他者と協調せず、公共の秩序を破壊するような行為を「個性」と称し肯定し、周囲と協調し、公共の秩序に従うことを「全体主義」「反動」と称して否定した。前時代のものをすべて否定し、破壊することで、戦後の世代、いわゆる団塊世代を中心とする戦後教育を受けた世代は自らのアイディティを表現した。

 そして、この国には誤った「個」、すなわち「我」が蔓延した。社会のルールを守らないのも「個性」だ。「法規範、公共マナーなんて糞喰らえ」だということが、自分たちのポリシーであり、自分たちの「個性」だとこの世代は主張した。しかし、それは「個性」の確立ではない。「個性」とは「自分」のポリシーであるべきで、「自分たち」では「個性」ではない。「世代の特性」に過ぎない。

 この世代の「個性」「個人主義」という名の暴走の原因は、戦後民主主義教育といわれるものにあった。その影響は今日も色濃く残っている。というのも、それらの世代から教員になったものもあれば、親となりその考えに基づいて子育てをしてきたからだ。

 今の日本の教育の問題点の一つが、この「個」と「我」の取り違えだ。「個」を尊重という大義名分の下、結果的に、子供たちの「我」を放置し、我儘を「個性」だとして、我儘を助長してきた。そして、それらの教育を受けてきた世代が、いまや、60歳代から現役の学生までに広がり、この国の公共道徳を崩壊させている。

 自分さえよければ他人はどうでもいい。他人の迷惑になろうと、自分がそれで満足できるならそれでいいという風土がこの国に定着しつつある。蔓延であったものがいまや、定着しつつある。

 「個」と「我」の取り違えが、その成長によって、この国の伝統文化と、公共道徳を破壊し、家族という制度すらをも破壊している。

 戦後60年、家族の形態が崩壊している。そこには、「個」ではなく、「我」がある。親子、兄弟、夫婦という関係ですら、そこには「個」という名の「我」が支配している。親が子を殺し、子が親を殺し、兄弟が相克し、夫婦が安易に離婚し、家族が離散する。そして、家庭内での暴力・暴言が当たり前となり、人としての在り方が崩壊し、その人の裁定の集合単位である家族が崩壊し、その上の集合単位である地域が崩壊している。

 「我」を制御するという躾を放擲し、自由気儘にすることが、我儘ではなく「個性」だとして、自立した「個」の確立だとした、戦後社会はいま、崩壊しつつある。

 その代表格は、鳩山由紀夫首相だろう。他人の問題点を追及しつつ、それと同じことを自身もしている。ここには、「個」はない。他人の問題点を指摘し、自らはそれに染まらないことこそが「個」の存立である。同じことをしつつ、自分は良いが、他人の行為は許さないというのが、「我」でしかない、我儘勝手の論理だ。

 日本は戦後60年、「我」に支配され、「公共」という概念は消滅しかけている。「公共道徳」という言葉が古臭いといわれる現代。これからの日本はどうなるのか。本来の「個人」という概念が「我」というものにとって代わられ、「家族」という最少の集団単位、最小の人間社会の構成組織が崩壊し、「地域コミュニティ」が崩壊し、「社会」が汚染され、病に冒された日本。社会が完全に崩壊したとき、日本という国家も自壊するのではないか。

 どこかで、「我」を捨て、「個」を獲得し、個の集合体として「地域」そして、「社会」を取り戻し、公共道徳、社会秩序を再確立しなければ、この国は崩壊するだろう。「個」とは互いを認識し、尊重する社会のことであって、他人に自分の主義主張を押し付ける「我」とは異なる。そのことを再認識すべきだ。それができなければ、日本は日本でなくなる。

 まずは、自身の在り方、家族の在り方から考えることから多くの人が始めれば、社会は必ず良い方向に変革するはずだ。家族とは人間が構成する集団だからだ。家庭教育が重要であることも、それが人間が最初に受ける教育だからだ。そこから改めていけば、公共道徳は甦り、社会は再生するはずだ。

 古いものを捨て去る前に、古いものの良さを知ることが必要だった。日本はそれをせずに戦後の変革を行った。先祖が代々積み重ねて改善を続けてきた叡智を塵芥のように捨て去った日本。今、捨て去ったものを拾い、その叡智を、この病んだ現代を治すために活用すべきだ。人間の永年の営みのなかで培った智恵というものはそんなに安易に捨てされるようなものではない。その智恵を今こそ生かすべきだ。
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