体罰の 再定義が 必要だ [教育]
桜宮高校のバスケットボール部主将の自殺以来、体罰論議が姦しいが、論点がずれている人が多いように感じる。
たしかに法律で体罰は禁じられている。では、そこで規定されている体罰とは何か。
法的には学校教育法第11条で
と、規定されているが、具体的な表現はなく、体罰はいったい何を指すのかは、法務庁調査意見長官通達『児童懲戒権の限界について』などの各通達に基づいている。
ところで、ここで述べられている体罰も、今回の桜宮高校などでの事象も、本当に『体罰』なのだろうか。
というのも、『体罰』は懲罰であると規定されているのだが、懲罰は何らかの「罰」を受けるべき「罪」の存在を前提にしているはずだ。
しかし、今回の桜宮高校の場合は、「罰」としての『体罰』だったとは思えない。「殴ってもいいんやな」と確認して殴った顧問。
どのように解釈しても何かの「罰」としての『体罰』とは思えない。単なる『暴力』ではないのか。
今回の『体罰』論議で私が違和感を感じるのは、単なる『暴力』を『体罰』と呼称していることだ。
それは、教員や顧問、監督たちの言い訳の論理に載せられている証左だ。
今回の事件は『体罰』ではなく、『暴力』なのに、『体罰』ともっともらしく飾るから論議が深まらない。『体罰教師』=『暴力教師』ではない。
『体罰』には何らかのペナルティという意味合いがある。しかし、『暴力』にはそういう意味合いはない。
しかし、教育現場でもマスメディアでもそこの違いに触れることが稀だ。
たとえば、野球における投手を取り上げて考えてみよう。冬季などの走り込み不足でスタミナ切れになることによって成績が伸びない投手に対して、体力トレーニングのために走り込みをさせることは練習である。かりに、練習試合でスタミナ切れで敗戦した場合、大会に向けてスタミナをつけるために走り込みを行わせる行為は『体罰』にあたるだろうか。これは現状の規定では『体罰』に該当する。なぜなら「被罰者に肉体的苦痛を与える」からだ。
では、試合に負けた腹いせに監督が選手に「気合を入れる」と称してビンタをした場合はどうだろう。現状の規定ではこれも『体罰』に該当する。
おかしくはないか。
走り込みは練習であり、練習試合の敗戦を糧に選手の能力を伸ばすために指示されていたとしても『体罰』であり、単なる腹いせでビンタでも『体罰』とは。
どのように考えてもビンタは『体罰』ではなく『暴力』だ。私はこのような『暴力』は教育現場だけでなく社会全体に不必要だと考える。
しかし、その一方で、選手の能力を伸ばすために、失敗を糧に指示される『体罰』は容認すべきだと考える。といっても、そこには選手と指導者の間に、意思疎通があり、その練習がなぜ必要なのか?という説明があっての上でだが。
私は指導者の『暴力』を許してはならないと考えるが、『説明責任』を果たし、『意思疎通』を図り、『納得』の上で行われる『体罰』を容認すべきだと考える。
指導に許される『体罰』には『説明責任』『意思疎通』『納得』が必要だと考える。それらが揃っていれば、学生、生徒、児童は指導者の『愛』を感じられるだろう。
スポーツの指導でも求められるのは社会通念上、許される範囲内かどうかだ。『暴力』『強要』など社会通念上、許されない方法での指導は、当然、スポーツの世界であっても許されない。
今、必要なことは、スポーツの世界は特殊だという考えを捨て、一般社会と同じように考えることではないか。
たしかに法律で体罰は禁じられている。では、そこで規定されている体罰とは何か。
法的には学校教育法第11条で
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
と、規定されているが、具体的な表現はなく、体罰はいったい何を指すのかは、法務庁調査意見長官通達『児童懲戒権の限界について』などの各通達に基づいている。
ところで、ここで述べられている体罰も、今回の桜宮高校などでの事象も、本当に『体罰』なのだろうか。
というのも、『体罰』は懲罰であると規定されているのだが、懲罰は何らかの「罰」を受けるべき「罪」の存在を前提にしているはずだ。
しかし、今回の桜宮高校の場合は、「罰」としての『体罰』だったとは思えない。「殴ってもいいんやな」と確認して殴った顧問。
どのように解釈しても何かの「罰」としての『体罰』とは思えない。単なる『暴力』ではないのか。
今回の『体罰』論議で私が違和感を感じるのは、単なる『暴力』を『体罰』と呼称していることだ。
それは、教員や顧問、監督たちの言い訳の論理に載せられている証左だ。
今回の事件は『体罰』ではなく、『暴力』なのに、『体罰』ともっともらしく飾るから論議が深まらない。『体罰教師』=『暴力教師』ではない。
『体罰』には何らかのペナルティという意味合いがある。しかし、『暴力』にはそういう意味合いはない。
しかし、教育現場でもマスメディアでもそこの違いに触れることが稀だ。
たとえば、野球における投手を取り上げて考えてみよう。冬季などの走り込み不足でスタミナ切れになることによって成績が伸びない投手に対して、体力トレーニングのために走り込みをさせることは練習である。かりに、練習試合でスタミナ切れで敗戦した場合、大会に向けてスタミナをつけるために走り込みを行わせる行為は『体罰』にあたるだろうか。これは現状の規定では『体罰』に該当する。なぜなら「被罰者に肉体的苦痛を与える」からだ。
では、試合に負けた腹いせに監督が選手に「気合を入れる」と称してビンタをした場合はどうだろう。現状の規定ではこれも『体罰』に該当する。
おかしくはないか。
走り込みは練習であり、練習試合の敗戦を糧に選手の能力を伸ばすために指示されていたとしても『体罰』であり、単なる腹いせでビンタでも『体罰』とは。
どのように考えてもビンタは『体罰』ではなく『暴力』だ。私はこのような『暴力』は教育現場だけでなく社会全体に不必要だと考える。
しかし、その一方で、選手の能力を伸ばすために、失敗を糧に指示される『体罰』は容認すべきだと考える。といっても、そこには選手と指導者の間に、意思疎通があり、その練習がなぜ必要なのか?という説明があっての上でだが。
私は指導者の『暴力』を許してはならないと考えるが、『説明責任』を果たし、『意思疎通』を図り、『納得』の上で行われる『体罰』を容認すべきだと考える。
指導に許される『体罰』には『説明責任』『意思疎通』『納得』が必要だと考える。それらが揃っていれば、学生、生徒、児童は指導者の『愛』を感じられるだろう。
スポーツの指導でも求められるのは社会通念上、許される範囲内かどうかだ。『暴力』『強要』など社会通念上、許されない方法での指導は、当然、スポーツの世界であっても許されない。
今、必要なことは、スポーツの世界は特殊だという考えを捨て、一般社会と同じように考えることではないか。
おっしゃる通りです。気合をいれることと、ビンタを一緒にしているのは
おかしいです。肉体的苦痛になるほどの練習しないと、向上しないと
思いますね。
by やおかずみ (2013-02-01 14:42)
皆様、いつもnice!ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
やおかずみ様、コメントありがとうございます。そうですね。今の時代は何事も自発的でないとダメ。強制はダメ。規制が増えすぎているように思います。楽して成果を出そうという気風が蔓延しているように思います。
大学でも一部の強化選手など以外は実際、適当ですからね。
by yukikaze (2013-02-05 09:32)