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藤里町の連続児童殺害事件 [事件]

今日、藤里町の連続児童殺害事件の地裁判決がでた。刑は「無期懲役」となった。求刑が死刑であったから、求刑よりは軽い刑罰ということになる。また、死刑ではなく、無期懲役であるということは、裁判所は「更生の見込みがある」と判断したといえる。死刑は更生の可能性がなく、格段に重い犯罪に対して採用されるためだ。今回の場合、複数の人間を殺害していることから死刑が相当とされる格段に重い犯罪といえる。しかし、裁判所は死刑を回避し、無期懲役とした。ということは、更生の可能性ありと判断したといえる。

しかし、その一方で、犯罪の構成そのものは、彩香ちゃん事件、豪憲くん事件の双方において、検察側の主張が採用された。また、心神耗弱などの弁護側の主張を退けている。そこで気になるのは、検察側の主張がほぼ認定されているのに、量刑のみが軽減されたという点だ。確かに死刑廃止という風潮もある。また、一部で報道されているように計画的犯行ではないと裁判所が判断したために量刑が軽くなったという側面もあるかもしれない。

その一方で、検察側の主張。特に、彩香ちゃん殺害に関しては自供しか証拠がなく、裁判でそれを被告が覆したために、証拠がない状況となっていた。物的証拠や状況証拠からは被告の犯罪であるという証明はできなかった。しかし、裁判所はこの自供のみを採用する形で判断した。そこには問題点はないのか。現在の日本では自供が重要視されすぎていることは冤罪の温床となると批判を受け続けているが、今回の場合は冤罪の可能性の有無はおくとしても、自供のみという状況は危険だ。県警の捜査レベルの問題もある。当初、事故として判断したために初動が遅れ、物的証拠などが収集できなかったことは間違いない。その事故と判断した判断に問題はなかったのか。また、その後も、自供に重点を置きすぎたために、裁判で自供を翻されると証拠のない状態となってしまった。今回は、裁判所の判断が自供の妥当性を認定したからよかったが、そうならなかった場合を考えなくてはならない。

また、豪憲君殺害に関しても県警の捜査には疑問符がつく部分も多い。県警はこの事件を教訓に初動重視の体制を整えるべきだ。

裁判所の判断として今回、心神耗弱を認めなかったことを弁護側は上告理由としそうだが、子どもをどのような形であれ失った場合、多少なりとも心神耗弱の状況にはなっていたであろうことは推測できるが、確固とした意思を持って犯罪に及んでいることは間違いなく、心神耗弱を理由として刑を改める必要性はないと考える。また、反対に、検察側は計画的な犯行であったとしていたが、裁判所はそれを否定しているため、検察側がそれを不服として上告する可能性もある。しかし、計画的な犯行であったということは証明できそうにない。県警がさらに捜査を進めて新事実が判明し、それに基づいて計画的な犯行であったと証明できる場合であれば別だが、現状では困難だ。

それらを総合的に勘案すれば、量刑的には今回の裁判は妥当だと思われるが、事実認定などにおいてはそこまで検察側の主張を採用するのであれば死刑が妥当だったのではないかと思われるし、心神耗弱を部分的に認めて減刑したのであれば、それを判決文に明示する必要があるのではないか。それとも、自供に一部留保する部分があると考えて減刑したのであれば、それを判決文に明示する必要がある。あらゆる角度から見ても、事実認定と量刑との間にズレを感じてしまう。

それが私には少し気になる部分で、少し釈然としてない。


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